植物工場の基礎・概要
植物工場の安全性は「無農薬」では守れない
植物工場の事業計画書には、たいてい「閉鎖環境だから安全」と書いてあります。でも出荷先のバイヤーがQA監査で見るのは、その一文ではありません。循環する養液で菌が出たとき、どのロットまで遡って回収するのか。空調系統が止まって一帯がだめになったとき、契約上の責任と保険はどう動くのか。監査チェックリストが突きつけてくるのは、「無農薬かどうか」ではなく、「何か起きたときに止血できる設計になっているか」です。もし自社の検証項目がまだ「残留農薬は問題ないか」で止まっているなら、この記事はその監査の前に読んでおく話です。
安全性という言葉が束ねている三つの層
植物工場は「閉じているから安全」と語られます。けれど閉じているということは、中で何か起きたとき、水や空調を通じて全部がつながっているということでもある。一つの棚で菌が出れば、それが水路に乗って隣のラインへ回りうる。無農薬かどうか、という話とはまるで別のところで、ここに引っかかったことはないでしょうか。そう考えると、安全とは「育て方がきれいか」ではなく「広がったとき、どこまで巻き込むか」の話なのではないか。もっとも、これは「閉じている=必ず全滅」という決定論の話ではありません。私の考えはむしろ逆で、十分な流量で正常に循環し、きちんと管理された水耕設備なら、病原菌が蔓延するリスクはもともと低い。要は、安全を見る単位が「一株」ではなく「水路でつながった範囲」になり、その範囲をどう区切り、循環をどう正常に保つかが問われる、ということです。あとで詳しく触れますが、私は殺菌設備で抑え込むより、正常な管理を徹底する側に立っています。実際、出荷先と話すと、向こうが気にしているのは農薬の有無ではなく、何かあったときの回収や保険や契約の取り決めです。本来それぞれ別の話のはずなのに、実際は同じ「安全」という一言でまとめられている。なお、ここで念頭に置いているのは、養液を循環させる水耕型で、葉物を中心とした植物工場です。果菜や太陽光型の温室では、菌の広がり方も対策の効き方も変わってきます。
無農薬かどうかというラベルの話と、この引っかかりは、別の層です。ラベルは「入口で何を入れなかったか」を保証しているだけで、施設の中で何が起きうるかは何も言っていない。むしろ、閉じて均質にした環境は、一度入った菌にとっては動きやすい場所にもなりうる。土も天敵もおらず、温度も湿度も一定で、水は循環している。清潔であることと、菌が広がりやすいことは、両立しうる。きれいだから増えない、とは限りません。だから安全の単位が「一株」や「一棚」ではなく「水路でつながった範囲」になる。ただしこれは「経路がつながっている」という話で、つながっているからこそ、その水路を正常な状態に保てているかどうかが分かれ目になります。育て方の清潔さは点の話ですが、リスクは線で動く――そして、その線が暴れないよう流量と循環を保てるかが管理の勝負どころです。出荷先が農薬ではなく回収や保険や契約を気にするのは、まさに「広がったときどこまで巻き込むか」を金額と責任で見ているからです。彼らにとって安全は栽培品質ではなく、事故が起きた後に誰がどこまで負担するかの取り決めです。整理すると、「無農薬」は商品ラベル、つまり点の保証です。一方で植物工場の安全性は、菌が水路で広がりうる経路と、それを正常な循環・管理で抑える運用、そして広がったときに契約と保険と回収が同時に動くこと――この事業リスクの束です。同じ「安全」という言葉が、本当は層の違う三つを束ねている。
そしてこの逆説は、設計の出発点からすでに埋め込まれています。ソイルレス栽培、つまり先ほどの養液で育てる水耕型は、そもそも土壌の病気を避けるために開発されたのに、養液を循環させること自体が、ピシウムやフィトフトラといった遊走子を出す病原体にとって都合のいい水環境を作ってしまう、と整理されています。ただし同じレビューは、こうした病原体も通常は管理(消毒を含む手当て)で抑えられるとも並べて述べています(参考: 1)。土の病気を避けるために選んだ方式が、水耕に特有の病害経路を新しく生む。けれどその経路は、手当て次第で抑えられるものとして語られている。私自身は、その手当てを強い殺菌に寄せるより、流量を確保して正常に循環させ、水系を分けて管理するほうが本筋だと考えています。殺菌に偏ると、後の章で触れるように養液の成分のほうにしわ寄せがくるからです。ここで水路に乗って広がりやすいのは、まず作物そのものをだめにする植物の病原菌――つまり出荷できなくなるという事業リスクのほうです。では消費者にとっての食品安全はどうか。むしろ露地より有利な面もある。実験室で育てたレタスの葉の細菌数は、露地のものより10〜100倍低いという実測もあります(参考: 2)。ただし、その清潔さは「菌が広がらない」ことを意味しません。絶対的な菌の量が少なくても、一度どこかに入れば循環水が経路になりうるという問題は残り、回収や契約という事業リスクはゼロになりません。室内のきれいな数字を、露地と同じ感覚で読むこと自体に、すでに無理があります。
菌は線で動き設備は面で落ちる
停電。空調停止。閉じて均質にしている施設では、こうした機械的なトラブルもまた、一気に全部へ回る気がします。この「線で動く」という話は、菌に限らないのではないか。菌は広がる経路の話ですが、そういう設備側のトラブルは、同じ「閉じているから一蓮托生」の別バージョンなのでしょうか。

仲間ではあります。ただ、層としては分けたほうがよい。理由は、広がり方の起点が違うからです。菌は中で発生して水路を伝っていく、いわば内側から線を引く話です。停電や空調停止は、外から一気に全面を落とす話です。経路をたどって順に巻き込むのではなく、共通の土台が抜けて同時に倒れる。だから菌が「線」なら、設備は「面」です。閉じて均質にしている分だけ被害が揃って出る、という点だけが共通していて、動き方は別物。この区別が効くのは、効く対策が逆向きだからです。菌は経路を断つ、つまりラインを分ける・水系を分ける・流量と循環を正常に保つ方向で守る。設備は逆に、冗長化する・自家発を持つ・系統を二重にする方向で守る。同じ「分ける」でも、菌は広がりを止めるために分け、設備は一個落ちても残りが生きるために分ける。混ぜると、片方の対策がもう片方には無力になります。
菌の側の「線で動く」をもう少し細かく見ると、温度しだいで増え方がかなり変わります。ある日和見性の細菌を培地とバジルの汁で見た実験では、4°Cでは6日間ほとんど増えなかったのに、20°Cでは3日以内に5桁(10万倍)以上も増えました(参考: 3)。ウイルスのほうは、向きがむしろ逆です。養液中のあるウイルスが10分の1に減る(不活化する)までの日数は、15°Cでは48日もかかるのに、37°Cでは約7日まで縮みます(参考: 5)。細菌でもウイルス(代替株)でも、温度という同じ変数で「安全のライン」は動く。ただし細菌は高温で増え、ウイルスは高温で速く消えるので、動く向きは逆です。だからこそ、何の菌を相手にしているかを抜きに「何度なら安全」とは言えません。そして汚染がどこから入るかについても、ある研究では、水耕ほうれん草で培地よりもまず水が主要な汚染経路だと報告されています(参考: 4)。だとすれば、断つべき線がまず水であることもはっきりします。
原因で見る栽培側と結果で縛る出荷先
菌は中で発生して水路を伝う「線」、設備トラブルは外から一気に全面を落とす「面」――ここまで原因で世界を切ってきました。では、出荷先との契約は、その原因の違いまで見て書かれているのでしょうか。多くの場合、原因まで細かくは書いていません。書いてあるのは「結果」のほうです。納期に入らなかったらどうするか、規格外が出たらどうするか、回収が必要になったら誰が費用を持つか。停電で全滅しようが菌で一部だめになろうが、出荷先から見れば「約束した物が来ない」という同じ結果です。だから、原因の層を分けずに結果で縛ってくる。

ここで、立場によって世界の見方が逆になっていることに気づきます。栽培側は原因の層で世界を見ていて、菌か設備かを分ける必要があります。一方で出荷側は結果の層で見ていて、あえて分けません。安全という一語が層の違う三つを束ねていますが、その束をどこで切るかが、立場によって逆になっている。栽培側は原因で切り、出荷側は結果で切る。これが、契約交渉で噛み合わないポイントです。
そして事故が起きた後、その「結果」はさらに三つのダメージに割れて動きます。一つ目は、回収や廃棄、検査のやり直しでその場から出ていく直接の損害。二つ目は、取引が止まったり外されたりする損失で、これは一度の事故より尾を引きます。三つ目は、「あそこは事故を出した」という信用の毀損です。最初の二つは結果の層で金額と契約に直結し、見積もりやすい。やっかいなのは三つ目で、これは次に話す態度の層に効いてきて、契約書のどこにも金額として書かれていません。事故が起きた後に契約と保険と回収が同時に動く――これが、「結果の層」で安全を見るということなのです。
消費者の不安と事業者のリスクは別の軸
このダメージの三つ目、信用の毀損につながるのが、消費者との間にあるもう一つのズレです。植物工場の野菜に「なんとなく安全じゃなさそう」と感じたことはないでしょうか。そのとき、自分の不安の中身が、農薬なのか、菌なのか、それとも「人工的」という技術への違和感なのか、本人にもはっきりしていないことが多い。一方で、事業者が実際に背負うリスク――水路を介した菌の広がりや、温度しだいで菌が残る条件――は、消費者が不安に思っている中身とは対応していません。

このズレは埋めにいくものか。私が現場で出荷先や見学者と話してきた範囲では、埋めようとした瞬間にかえってこじれることが多い、というのが正直な実感です。消費者の不安は「人工的だから危ない」という感触で、これは中身の話ではなく態度の話です。そこに「水路を分けています」「菌の経路を断っています」と技術の中身を返すと、「そんなに管理しなければ危ないのか」と受け取られて、不安をかえって大きくしてしまったことがある。不安の層に技術の答えを返しているから、噛み合わないどころか悪化したように見える。少なくとも私の手元では、そういう場面が何度かありました。
だから埋めるのではなく、最初から語り口を分けたほうがよい。ただし、分けるというのを「消費者には嘘の安心を、事業者には本当のリスクを」という二枚舌の意味にとると、それも筋が悪い。そうではなく、消費者に返すべきは「誰が責任を持って見ているか」という保証の話です。中身の経路や菌の条件ではなく、その人が信頼を預けられる相手かどうか。消費者が本当に確かめたいのは、菌の細かな話よりも「ちゃんとした人がやっている」かどうか、なのかもしれません。だから技術の透明性を前面に出すより、責任の所在を見せる。とはいえ、聞かれた中身――菌対策や検査の結果――には誠実に開示する。中身を隠すのではなく、聞かれていない中身を押し付けない、ということです。ただし、消費者が問いを立てようがない重要な安全情報――たとえば閉鎖環境ゆえの伝播リスクと、それを正常な循環管理でどう抑えているか――は、聞かれていなくても能動的に開示する。これは「押し付けない」の例外として最初から線を引いておきます。
では、噛み合うのは同じ層で見ている相手だけなのか。これは半分そうで、半分違います。同じ層の相手とは確かに楽です。出荷先とは結果の層で話せばよいし、現場の技術者とは原因の層で話せます。けれども本当に大事な仕事は、層をまたぐ翻訳のほうにあります。消費者の「なんとなく不安」を、事業者の「点検すべき条件」にどう対応づけるか。出荷先の「結果の縛り」を、現場の「原因の対策」にどう落とすか。その層と層の間を、誰が翻訳役として引き受けるか。安全そのものを担保するのは正常な循環管理と記録と冗長化の設計ですが、層と層の間にできる齟齬――契約交渉の噛み合わなさや、消費者不安の悪化――を減らせるかどうかは、この翻訳役がいるかどうかで大きく変わります。
この「消費者が恐れているものと、事業者が点検すべきもののズレ」は、調査の形でも裏が取れています。都市で育てた野菜について、ボローニャの調査では6割を超える人が大気や土壌からの汚染を心配している一方で、サンフランシスコの都市農場(土耕)で重金属を測った報告では、その値が FAO・WHO の基準を下回っていました(参考: 6, 7)。土耕の都市農場ですら値が基準を下回るのですから、少なくとも管理された培地や水源を使う施設では、心配されている中身と、測ってみた実体は、必ずしも一致しません。しかも消費者が漠然と思い浮かべるのは土壌や大気由来の汚染で、植物工場の事業者が現に背負っているのは水路を介した微生物という別の軸なのです。
点検項目は原因と結果と態度の三段で組む
新しく事業計画を立てるときも、既存施設で品質保証の監査に備えるときも、最初に詰まるのは同じところです。点検項目として、何を、どこまで並べればよいのか。衛生、微生物、トレーサビリティ、契約上の保証といった領域は思いつくのに、どんな順番や粒度でリストに落とせばよいのか、見当がつかない。そういう局面です。
点検項目を最初から「衛生」「微生物」「契約」と領域で並べると、たいてい監査用の分厚いリストはできますが、現場では使われません。性質の違う三つの層――原因・結果・態度――が混ざったまま並ぶからです。だから、領域で割る前に、まずこの三つの層で一回仕分けます。
具体的には三段で落とします。一段目は原因の層、つまり現場が自分で潰す項目です。菌なら水系の分離・洗浄殺菌の記録・温度逸脱のログ、設備なら停電時の保持時間・冗長系の点検。ここは「経路」と「面」で対策が逆向きという話そのままで、項目も分けて書きます。二段目は結果の層、出荷先に対して負う項目です。納期未達・規格外・回収の発火条件と費用負担、そしてトレーサビリティはここに置きます。汚染がまず水から入りやすいことを思えば、どの水系がどのロットにつながるかを辿れるようにしておくと、いざというとき回収範囲を絞り込めます。ロットをどの単位で切れば、事故が起きたとき回収範囲を最小にできるか、という発想で粒度を決めます。三段目は態度の層、消費者に見せる責任の所在です。これは技術項目ではなく、「誰が保証しているか」を一行で言えるか、です。粒度のコツは一つだけで、「事故が起きたとき、その項目を辿って原因か責任者にたどり着けるか」。たどり着けない項目は飾りなので落とします。
出荷先による水準の違いも、この三段で整理すると見通しがよくなります。まず、どの出荷先にも共通する最低限の床は、原因の層の記録(洗浄殺菌・温度・水系)と、結果の層のロット追跡――つまり「何かあったら辿れる」状態です。そのうえで、上乗せが出荷先ごとに変わります。私が出荷先と話してきた範囲では、量販は結果の層を重く見て、トレーサビリティと回収の取り決めを厚く求めてくることが多い。ロット管理の粒度がそのまま問われます。外食は鮮度と規格の安定、つまり原因の層のうち品質のブレに目を向けてくる相手が多かった。給食はさらに一段重く、喫食者に子どもや高齢者が含まれるぶん、微生物の項目を厳しく見られたうえに、事故時の即時回収や連絡網まで結果の層に入ってくる、という詰め方をされた経験があります。あくまで自分の取引相手がこう詰めてきた、という範囲の話で、業界全体の傾向として一般化できるものではありません。同じ施設でも、出荷先が変わると「厚くする層」が変わります。リストを作り直すのではなく、三段のうちどこを深掘りするかを出荷先ごとに切り替える。最初から層で組んでおくと、この出し分けが効きます。
では、養液はとにかく消毒すればいいのか。ここははっきり立場を書いておきます。私はむしろ、殺菌設備に頼り切らず、十分な流量を確保した正常な循環と管理を徹底すべきだと考えています。理由は二つあります。一つは、消毒が思うほど万能ではないこと。灌漑水のなかの植物病原体を対象に、塩素・二酸化塩素・紫外線を並べて比べた研究では、同じ処理でも病原体の種類によって、99%以上を殺すのに必要な濃度も曝露時間も大きく違い、ひとつの標準処理が全部に同じように効くという前提が成り立ちません(参考: 8)。もう一つは、消毒が養液そのものにしわ寄せをくれること。オゾンのマイクロバブルは病原体に有効でも、養液中のマンガンや鉄を一緒に下げてしまうという固有のクセがあります(参考: 9)。紫外線や加熱、オゾンのような強い殺菌は、病原体と一緒に有益な微生物まで落としかねない、ともあるレビューが指摘しています(定性的な指摘ではありますが)(参考: 1)。狙った菌は減らせても、養液の成分や菌のバランスという「育てる側」を削ってしまう。だから私は、設備で抑え込むより、流量を保って正常に回し、水系を分けて管理する側に立ちます。それでもなお消毒を併用する場面はありますが、そのときは「消毒した」で一括りにせず、何を・どの量で・どれだけの時間あてたかを項目として残す。逆向きの打ち手として、トリコデルマのような有益微生物を使うと、レタスのフザリウムによる根腐れを抑えて収量も保てたという実験もあり、これは無農薬という売り文句ではなく「どの条件をどう設計すれば衛生リスクが下がるか」の検証項目の一つとして並べ直せる材料です(参考: 10)。消す方向と育てる方向は、別建てで考えておいたほうがよさそうです。
自助の範囲と専門家に渡す線引き
ここまでは、事業者が自分で点検項目を組み立てるための「見方」を話してきました。ここで一本、線を引いておきます。自分で組み立てられるのは、ここまでです。実際に微生物の管理基準値を確定したり、HACCP の認証を取ったり、食品事故が起きたときの保険の設計や契約条項の文言を詰めたりする段になると、これは自己流で完結させる領域ではなく、食品衛生の専門家や保険・法務の実務家と組むべきところです。ここでお渡しできるのは「何を点検対象として並べ直すか」という枠組みまでで、各項目の基準値や法的な詰めは専門家の領域です。
「食品事故が起きたとき」を起こらない前提にしない。この「事故は起こりうる」という構えは、気休めではなく実態に合っています。たとえばマイクログリーンは、これまで食中毒の集団発生こそ結びついていないものの、近年だけで7件の自主回収の対象になっており、事故と回収は「もし」ではなく現に起きています(参考: 11)。しかもマイクログリーンのような若い植物は、保護組織が未発達なぶん、成熟した野菜より病原菌が内部に入り込みやすく、生育に適する18〜25°Cを超えると微生物の増殖はむしろ促されます(参考: 12)。給食のように、食べる人に子どもや高齢者が含まれる場面で点検が一段重くなりやすいのも、こうした植物側の脆弱性と、回収が現に起きているという現実をあわせて見れば、うなずける線引きです。
最初に感じた「安全って単純な話だったかな」という引っかかりは、たぶん減りはしません。むしろ「単純じゃない」の中身がはっきりするだけです。最初は漠然と「無農薬とは別の何かがある」くらいだったものが、原因の層・結果の層・態度の層という三つに分かれ、しかも層ごとに見ている相手も対策の向きも違うところまで形になります。次に事業計画やリスク点検表を開くとき、安全性はもう一つの訴求語ではなく、領域ごとに検証の詰め具合を確かめる項目の並びとして目に入るはずです。そして一番残るのは、誰が層と層の間を翻訳するのか、という問いです。「自分は何にモヤモヤしているのだろう」から、「引っかかっていたのは、この翻訳役が誰なのかが見えていないことだったのだ」へ。問いの置き場所が一つずれます。それだけでも、ふと考えるとモヤッとする、という状態からは抜けられるはずです。